地蔵院

小安町の西北にあり、宗派は曹洞宗で、山号を「金剛山」と称し、寺号を『地蔵院』と称する尼寺である。
越前松平家の祈願所でもあった。
延喜12年(912)頃に槇山山頂にあった庵を、永延2年(988)の一条天皇訓令で中腹へ移したのが開基と伝えられる。
開基当初は、真言宗で、金剛山那蘭陀尼寺(こんごうさんならだにじ)と称したが、金剛山那蘭院祥坊(こんごうざんならいんしょうほう)とも称され、古誌「越前国寺庵」には「東郷奈良谷寺(とうごうならだにじ)」と記されている。
現在の「地蔵院」への寺号改称は江戸期以前とみられる。改宗の時期は現在のところ不明である。
 本尊は、京都「梅宮大社」の祭神四座の中の一座「酒解子神」( 木花咲耶姫(このはなさくやひめ)・十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ))であり、「三社神社」の三祭神中の火火出見命(ほほでみのみこと)の生母として、古来から“子安観世音”として信仰が深い。
境内には「河濯堂(かわそどう)」や「稲荷大明神(いなりだいみょうじん)」の祭殿がある。地蔵院では、毎年7月末の2日間に亘り「河濯祭り(かわそまつり)」が行われて、寺宝公開や盆踊りで賑わっており、昭和中期頃には「七夜踊り」と称して七日間開催された。
「河濯祭り」に催されている”盆踊り”の起源については、”在所の女性達が町の中を流れる川端に集まり、一斉に洗濯するときの「音頭唄」とも云われる。
また、境内東隅に安置の丸型石は、昔の境内にあった「観音堂」の頂上屋根に祭られていたと伝えられており、当時の建築物の規模の壮大さが偲ばれる。
その昔より将軍家はじめ国主、領主に産婦ある時は当院より子安の薬を奉った、かつて当地を子安薬の荘東郷と号された。
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