長谷川 秀一(はせがわ ひでかず)
? − 文禄3年(1594年2月)は、戦国時代の武将。長谷川可竹(嘉竹、丹波守)の子。名は貞長(さだなが)とも。通称は藤五郎。官位は従五位下。侍従。妻は飯尾尚清の娘。子に堀秀治室。
尾張国出身で、早くから織田信長の側近として仕えた。天正7年(1579年)に安土宗論が起こった時はその事務を司っている。信長の男色相手として大層深く寵愛され、「長谷川竹」という呼び名で信長には呼ばれていた。
天正10年(1582)6月、徳川家康の接待役を命ぜられ和泉堺に滞在中に本能寺の変報に接したが、家康一行とともに伊賀を越えて無事三河まで逃れた。
信長の死後は羽柴秀吉に仕えて天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに兵2300を率いて参加したが、徳川軍の前に敗れた。
その後、越前東郷(現福井市)15万石の領主となり、秀吉から「羽柴」の苗字を拝領した事から「羽柴東郷侍従」と呼ばれるようになる。翌年には紀州征伐(千石堀城の戦い、第二次太田城の戦い)で武功を挙げた。
その後も、九州の役、小田原の役と秀吉の天下統一戦に従軍。小田原の役では山中城攻めに兵3000を率いて参加している。天正20年(1592年)から始まった文禄の役では兵5000人を率いて渡海し、天正20年(1593年)には細川忠興等と共に晋州城の攻略に参加し、昌原において朝鮮の将柳祟仁を野戦で撃破したが、晋州城の攻略には被害を多く出して失敗している(晋州城攻防戦)。
文禄3年(1594年)2月、朝鮮の陣中にて病に倒れて死去した(帰国して日本で病死との説もある)。子供はなく、長谷川氏は断絶した。